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- 三内丸山遺跡の存在そのものは古くから知られていましが、平成五年に当地に野球場建設着手直後、今までの常識を越える出土品が大量に発見され、その結果縄文時代前期約5500年前から中期約4000年前に渡る、実に1500年間以上もの間ここに巨大な村が営まれたことが明らかにされました。
- 縄文時代は紀元前一万二千年前から紀元前二、三百年前までを言います。当時の気候は、氷河期のピークが過ぎて温暖化が始まり、三内丸山遺跡の少し前の六千年前ごろに温暖化はピークを迎えました。そのせいで今では内陸の遺跡も、当時は海岸線がすぐ近くに迫っていました。
- 直径1メートルの栗の大木6本の遺りが発見され、遺跡保存が決定されました。屋根が有るとか無いとかで、学者の間で論争になり、とうとう屋根をつけずに復元された20メートル以上の見張り用楼閣。このため、はるばるロシアのウラル山脈から栗の大木が運ばれて来ました。
- 三内丸山遺跡発掘以前の縄文時代観はせいぜい数十人が洞くつや岩陰を住まいにし、動物を追ったりトチの実、栗の実などを拾い集めたりの採取生活をしていたと思われていました。しかし復元された長さ32m、幅9mの大型竪穴住居は、これらの縄文観を完全に覆しました。
- この巨木遺構は地表面下約2.7mほどの深さに堀建てられ、4.2mの等間隔で整然と並んでいます。穴とその底に残る木柱だけから地面の上にはどのようなものがあったのか想像するしかなく、祭し用、見張り台、日時計、太陽神を崇めるモニュメント等諸説入り乱れ結論がでません。
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